2010年4月16日 (金)

ハナ ジャンプ

Img_5671_2 いちリキ、から さんリキまで、そしてハナもジャンプが大得意です。でも、犬は自分ではジャンプの練習はしないとどこかの本に書いてありました。リキたちは確かにその通りで、自分でジャンプしているのは見た事がありません。しかしハナは違うようです。門の外をよその犬が通るとき、途中にあるジャンプ台を飛ぶことがあります。練習していると言うより見せびらかしている雰囲気です。 ハナ、 ジャンプ。

2010年3月31日 (水)

ハナは女の子

 ハナは女の子です。しかも美人です。人間も含めて女の子を育てた経験はほとんどないので、戸惑う場面がしばしばです。今日も、自分が寝ているマットの端をお人形のように少し丸めて、クーンクーンと優しい声を出しながら,なめていました。どこか痛いのかな、どうも違うようです。ママに甘えているというより、自分がママになり、赤ちゃんを抱いている風情です。Hana2ハナはママになりたいのだ、と思って見ていました。しばらくして、彼女は熟睡をします。そうするとどうでしょう、赤ちゃん代わりのマットは1メートル以上放り投げてしまい、板の上で、大の字になっていました。赤ちゃんでなくて良かった。優しい所と、敏捷な野生と両方を持ったハナ、近所のセントバーナードの修平は、ハナに飛びかかったとたん、見事に投げ飛ばされヒックリ返ったそうです。まるで、千葉道場の鬼小町です

2009年5月11日 (月)

第14話 花子はスットボケ美人

 美人花子はジャーマンシェパードですから、少しは番犬らしくなるのかなとある種の期待を持って眺めていました。ところが、いつまでたってもかわいらしい女の子のままです。人間に対してだけではなく、犬に対しても同じで、ご近所のミニチュアダックス君が門の前を通りかかたりすると、ベターと腹這いになり、ニコニコ笑顔で語りかけるものですから、ご近所では犬と言わず、おばさんも、お姉さんも、強面の訓練士のおじさんまで、門の前で花子の面会を請うようになってしまいました。Jpgさて、そんな花子の訓練の開始です。ジャーマンシェパードはお仕事犬ですから、おしっこやうんちを仕事場でやってしまうと、格好がつかなくなります。ナンバーワンと言えばおしっこ、ナンバーツーと言えばうんち、お仕事に行く前に済ますよう訓練されます。花子をヨットに連れていきますと、ヨットに乗る前にちゃんと決まった場所でナンバーワンもナンバーツーも済ませておく事ができます。さすが賢いジャーマンシェパードとなるはずですが、自宅ではどうもうまく行きません。彼女が喜びを表現する時は、全身で表現します。どうもその感情表現の中におしっこをちびるという表現が含まれているようです。たまたまその時、膀胱が満タンだったりすると、もういけません、そのままジョワーと出てしまいます。花子が赤ちゃんのとき、熱湯とウエスを持って家中を這いずり回りました。花子のうれしいチビリは少し大人になった今も完全には治っていません。でも賢いジャーマンシェパードですから、うれしい事が起りそうな時、先に庭へ出て用を済ませてから驚喜をするようになってきました。私が起きて二階から降りて来た時など、彼女はそっと庭へ出ていきます。こちらも、花子が驚喜しそうな時は、庭へ出て会う事にしています。いたずらをしたり、ソファーを破ったり、花壇を掘り返したりしても、美人花子はニッコと笑顔を見せれば人はそれほど怒らない事を知っているようです。これが先代のリキですと、怒られると判ると緊張で直立不動でしたが、花子はスットボケをきめ込みます。つまり、人間の美人と同じ。赤ちゃんの時から可愛い可愛いと育つと、人も犬もスットボケになるに違いありません。花子の訓練、どうも今までとかってが違うようです。花子生後八ヶ月です。
 
 

2008年10月17日 (金)

第13話 ハナがやってきた

 ハナは全日空でやってきました。ANA福岡発12時20分、伊丹着13時35分です。10年前リキを受け取ったのと同じ、ANA Cargoのカウンターです。場所も周りの景色も、オフィスの前に自動販売機があるのも何も変わっていません。「子犬ちゃんですね」と受付のお兄さんがニコとしたのも10年前といっしょ。ほとんどデジャビューです。リキがやってきたとき、彼は震えていました。無理もありません、突然母親や兄弟たちと離され、一人ケージに入れられて飛行機に乗せられ、さらに離陸の爆音。大の大人でも同じ目に遭わされたらかなりの恐怖です。ほとんど誘拐テロ事件です。リキが狭いところに閉じ込められると決まってパニックに陥ったのはこの時のトラウマが原因と思っています。リキのために買った私のワゴン車の最後部にはオプションでネットが貼られ、お犬様専用座席にしてありますが、リキは、「嫌だ、こんなサードデッキになんか乗れるか、ファーストデッキのビジネスクラスを用意しろ」といつも騒いでいました。さて今回の花子の場合、また震えているのかな、車で福岡まで迎えに行こうかな、など考えていました。そして着陸から10分後、花子の入ったケージが運ばれてきました。覗き込むとキョトンとした目でこちらを眺めていました。車のなかでケージを開けると、2-3回出たり入ったり、家に着く頃にはすっかりなれ、車から下ろすと庭の探検を開始です。30分後にはおしっことでかいウンチを出しました。Img_5006やはり、女の子の態度がでかいのは犬でもいっしょだと感心しきりです。 さて次の朝、6時起床。いや6時起床は私であってハナはもう少し早く起きていたのかもしれません。わが家の玄関はハナのおしっこでビショビショでした、お庭へ出て、花壇になっているリキのお墓にお参り、家の周りの庭を一周しました。最初、少しビビった階段もすぐになれました。呼べば必ず飛んできます。こうして美人花子の生涯が始まりました。


2008年9月 5日 (金)

 リキ物語 第12話 リキの朝食

 リキの朝食

 今リキも、もうじき8歳になります。人間で言えば、もうじき60歳ぐらいでしょうか、生物学的年齢は今の私とほぼ同じです。公園を少し走った時など、二人そろってぜーぜーはーはー、目を合わせてしまいました。長年つきあっていると、お互いに会話は完全に成立しています。この時の目は、「アーしんど、もうやめよか」と言いました。リキが私と散歩に行きたい時は、まず2階のタンスの前で、人の顔を見ます。その中にジーパンが入っているのを良く知っているからです。私がジーパンを身につけると、作戦は半分成功ですから、階段を飛び降りて行きます。犬の臭覚も聴覚も人間よりはるかに優れていますから、リキが1階の離れたところにいて、私が2階でジーパンに履き替えた場合でも、リキは飛んでやってきます。ジーパンの染料であるインディゴの臭いに反応しているのか、ジーパンが擦れて出る音に反応しているのかは定かではありません。ちなみに、私がスーツを着、ネクタイを締めてもリキは決して飛んでは来ません。せいぜい、階段の下で、うさんくさそうに上を眺めているだけです。幸子を散歩に誘う時は、もっともっと積極的に攻勢をかけます。まず、手をあま噛みしてトイレの前に連れて行きます。メスはお出かけ前にはトイレに行かねばならない事を完全に理解している行動です。そして、軍手の入った引き出しの前で飛び跳ね、次に排泄物収容用のビニール袋の入った引き出しへ行ってワン、靴箱へ行って、人間より先に靴箱に顔を突っ込み、なぜか靴を出さずにスリッパをくわえて走り回ります。軍手の引き出しや靴箱は、場所もでしょうが臭いで記憶しているのかもしれません。犬族の会話や思考は言葉だけではなく臭覚も関与しているようで、臭覚の記憶の組み合わせでストリーが理解できるそうです。あの臭いがあって、この臭いがあって、あれとこれが混じって、ああそうか。臭いの夢を見ているかもしれません。別々に行動していた家族が会ったとき、臭いを嗅ぎ回り、そうかそうか、あそこへ行って、どこどこへ寄って、誰と会って、何をした、臭いで相手の行動のストーリーが完全に判るそうです。女房が犬族でなくってよかったよかった。

 さて、犬の食事ですが、ドッグフードが出回ったのは比較的最近の事です。わが家の犬族の食事、昔は残飯でした。父が入院施設のある医院をやっていたので、残飯はたくさんありました。ただセントバーナードのイチだけは体重が80kg近くありましたから、残飯だけでは足らず、近所のスーパーに頼んで鳥の頭をわけてもらっていました。今は工場でやっているのでしょうが、昔はスーパーの裏で鶏肉を解体していたようです。それを台所で大きな鍋でぐつぐつやります。トサカもクチバシもついているので、知らない人が見たら、ゾーとする光景だったに違いありません。大型犬の体重は大きな人間と変わりはありませんが、わずか1年でそこまで成長するわけですから、大型犬の子犬の食事はとっても重要です。鳥の頭がよかったのか、セントバーナードのイチは、立派な犬になり、時々テレビのコマーシャルに出ていました。少し年月が経ち、わが家に最初のリキが来た頃、犬の食事はすっかりドッグフードと決まったようです。シェパードの食事は、普通は一日一回で、7カップぐらいは平らげます。朝は、サービスで牛乳とドックフード少々。もし、犬が人間の言葉を話せたら、ドッグフードはたちまち売れなくなるだろうと言われます。つまり、おいしくないのです。でも、犬族はおいしくなくても、結局は食べるので、ドッグフードは栄養だけを考えて生産されているそうです。キャットフードは、そうとは行かず、おいしくないものは、ネコマタギになりますから、キャットフードの生産者は猫を100匹飼っていて、何%の猫が食べたのかというデータをもとに、新しいキャットフードの開発をするそうです。わが家にタイガーがいるころ、タイガーの食べ残しをリキがおいしそうに食べていました。

 さて、いまリキです。兄弟が何人かいる家族では、下になるほどうまいものを食って育ちます。質実剛健にという親の教育方針がだんだんとルーズになるという理由の他に、親の経済状況も次第に良くなるのかもしれません。祖父母が、まだ小学生であった私、妹そしていとこ達を連れて食事に行きました。メニューを見て、いとこの兄貴は必ず一番安い物を注文しました。ところが弟の方は必ず一番高い物を注文しました。祖父が大笑いで「それはワインや」と言っていたのを覚えています。そのレストランでメニューの中で最も高い値段がついていたのはワインだったのです。リキも、今リキが一番おいしい物を食べています。ベースはドッグフードですが、トッピングと称して、いろいろおいしいものを載せてもらっています。人間の食べ物の中には、犬には毒になるものがあるそうで、それらはきれいに取り除いてあります。

 極めつけは朝食です。もともと朝食はサービスですから、多くとる訳ではありません。まず牛乳、誰かが起きてくると同時に、ボールをカランカランと蹴飛ばします。人がコーヒーを入れるより先によこせと言います。一度、牛乳を飲んだのに、違う人が起きてくると、あたかもまだもらっていないと言う顔をしてカランカランを繰り返します。たいていは騙されます。次にトースト、リキ専用の食パンが買ってあります。幸子は「安いのよ」と言っていますが、食べてみると実にフワーとしています。実はリキはフランスパンのような固いパンが嫌いで、ファワーとしたのが好きなようです。固いフランスパンでも食べるのですが、ちらっと人の顔を見て、わざと口の横からこぼしながら、バサバサと食べます。さてフワーとしたトーストですが、トースターでこんがりいい色に仕上がります。チーンと音がするとリキはテーブルの横に正座をします。必ず出てくる事を知っていますから、じっと待っています。熱いうちにバターをたっぷり塗られて、上に脂肪抜きのカテージチーズがもられ、その横に手作りのリンゴジャムが添えてあります。実は、原文ではオレンジママレードと書かれていました。しかし、リキはオレンジママレードは好きではなく、好物はリンゴジャムだと後から知らされ、この文章は修正されました。一方、私の食事は、一応同じものを食べていますが、皿の上にボエと置いてあるだけです。さらに、リキは一口で食べられるサイズにちぎってもらい、ふーふーとさましてから口に運んでもらっています。そのあと、リキはテーブルの上にある果物と人の顔をかわるがわる見ます。鼻はテーブルの上でまっすぐ果物に向かっています。アー、みかんだ、食べたい。よだれがボト。アー、ラフランセ、大好き。たいていは仕留めます。さらに、ヨーグルトのお皿をなめて、リキの朝食はおわります。Rikiin_snow
こうして、野生たっぷりに育てと期待されていたジャーマンシェパードは、すっかりペット生活に甘んじる事になりました。

 リキ物語 第11話 リキとMG

 リキとMG

 MGとはイギリス製の車です。モーリスガレージの略称で、正確に言うと車種の名前と言うより、車のメーカーの名前です。後にブリティッシュライトウェイトスポーツと呼ばれる、軽排気量のスポーツカーです。同じ仲間にオートバイメーカーが作ったトライアンフがあります。当時、イギリスのスポーツカーではオースティンヒーレーが有名でした。ビッグヒーレーと呼ばれた大排気量のスポーツカーで、庶民には高値の花だったそうです。イギリス人の貴族のお金持ちは、田舎にもお家を持っていました。お金持ちの馬屋には、馬に代わりヒーレーのようなスポーツカーが入り、馬丁は車のメンテ係になりました。今でも助手席と言う当時の名残の言葉が残っています。高値の花であったオープンスポーツカーを、若い一般庶民でも買えるように、との営業戦略から生まれた車がMGです。第二次大戦後、初めての流線型のモデルとして作られたのがMG-Aという車種です。それまでの箱形MGは、シャーシの一部やフレームにも木が使われていましたが、MG-A以降は金属製になります。しかし、床板は合板でした。Mg_2
 さて、私が医学部の学生時代、MGにあこがれました。176号線服部のハナテンにベージュ色のMG-Bが置いてありました。アルバイトで貯めたお金をある程度は持っていたので、母親に打診。「アホー、こんな車に乗ってみー、どう見てもエエとこのアホボンにしか見えへん、こんな車は40すぎて、どこから見ても自分の甲斐性で買うたと思われるようになってから買い」と一蹴にされました。
 それから、二十数年の月日が流れました。渓流釣りにと買ったランドクルーザーも12年になり、ボディーが錆びて穴が開いてきました。そろそろ、買い替えですが、四輪駆動車もはやりすぎて、いやになりました。どうして、泥道用の超でかいタイヤと猛獣よけのバンパーを装備し、パワーステアリングがついてピカピカの四駆が町の中にいっぱいいるのだろう、と不思議でした。何にでも、様々な付加価値をぶら下げて高く売りつける風潮にも腹が立っていました。二十年で車の値段は3倍に膨らんでいます。
 「欲しい車がない」と思ったとき、思い出したのです。MG、充分に40は過ぎています。むしろ50に近づいていました。近所に、とっても偏った嗜好の自動車屋さんがあります。そこにはどんな古い自動車でも、必ず直してしまう大将がいます。その工場にはトライアンフTR4が時々止まっていました。彼に電話、驚いた事に1957年製MG-Aがあると言いました。排気量1500ml、一番初期型のMG-Aです。
 そのMG-Aはメキシコシティーから来たそうです。赤錆だらけの、スクラップで、フェンダーにはメキシコの砂漠の砂が大量に固まって付いていました。彼なら何とかするだろうと思ったのでしょう、その場で契約してしまいました。
 しかし、そのMG-Aのレストアが完成するのは18ヶ月後の事でした。ボディーの錆び落ちて無くなってしまった部分など、叩いた鉄板を溶接して作っていくのですから、18ヶ月は無理もありません。革製のシートなどは手縫いです。
 さて、わが家にはリキがいました。ランドクルーザーの後部は、トミーとリキが乗っても、充分なスペースがありましたが、MG-Aが来たときランドクルーザーは東南アジアのどこかの国へ行ってしまいました。そして、リキのMG乗務訓練が始まりました。
 今の車の窓は、運転者の肩の少し下あたりから開口しています。横方向からの衝突の安全性をとやかく言っている車はもっと高いところに開口部があり、まるで装甲車です。ところが、MGやトライアンフなど、いわゆるライトウェイトスポーツはロウカットウィンドウが一つの売りだったのです。トライアンフTR3など、ほとんどベルトの位置まで開口しています。まるで全身が風の中にいるようでとっても壮快です。そこに、リキが乗る訳です。もし途中で暴れたりしたら、車から飛び出してしまう事もあって当然です。
 いちリキにハーネスをつけ、リードを運転席と助手席の間にあるハンドブレーキのレバーに巻き付けました。リキが動こうとすると、リードを引き閉めます。このやり方で、ご近所をぐるぐる回り、お互いに自信ができてからヨットハーバーに向かいました。なんとか4時間、三重県五カ所のヨットハーバーに到着した時、リキも私もくたくたに疲れていました。昔の複葉機に犬を載せて飛んだら、きっと同じくらい疲れたと思います。
 さて、にリキ、子供の時からとってもお行儀がよかったので、最初からおとなしくMGに乗る事ができました。一応、ハーネスは付けてありますが、ほとんど引っ張る必要はありません。最初に「座っていなさい」それだけでじっと正座をしていました。だから、安心してヨットハーバーへ向かいました。ところが、高速道路のトンネル、音に驚いたようです。
 突然、立ち上がりました。そして、運転している私に抱きついてきたのです。まず、前が見えません。「俺たちに明日はない」の中で運転をしているポールニューマンに女の子が馬乗りになるシーンがあります。車は田舎の道を蛇行していました。状態としては似ていました。しかし、馬乗りになっているのは、スカートを捲し上げた女の子ではなくシェパードで、高速道路の時速100km、トンネルの中です。振り払うとリキを落とす事になります。片手にハンドル、片手に首輪をもって何とかトンネルの外に出ました。二つ目のトンネル、今度は緊張して進入します。ハーネスを締め、リードをハンドブレーキに掛け、「座ってなさい、じっとして、じっと、じっとーーーーーーー」。リキは目を三角にして緊張していましたが、腰を一瞬浮かしただけで、何とか二つ目のトンネルを出ました。確かに、オープンカーでのトンネルの中の騒音はスザマしい音量です。そういえば、いちリキは、車は違いますが何度も旅行をしています。だから、トンネルの音に驚く事はありませんでした。にリキにとってはMGに乗っての五カ所が初めての長距離旅行だったのです。当然、トンネルも初めての経験でした。そのうち、MGの助手席にすっかりなれ、まるでパイプをくわえた、紳士が助手席に座っているような態度で乗っていました。隣を走っているおじさんが、窓をあけ、「様になっているよ」と声をかけてくれました。
 さて、さんリキ、子供のときはMGに載せて近所を周りました。しかし、何となく居心地が悪そうです。気がつきました。さんリキは大き過ぎるのです。助手席に座ると、顔がスクリーンの上に出てしまいます。鼻に風があたって、気持ちが悪いのでしょう、首を引っ込めると、ブレーキのたびに鼻をスクリーンにぶつけます。仕方がないので、しばらくは、助手席のシートを外してリキを載せました。それも、しばらくの間だけで、リキはもっと大きくなりました。とうとう、どうしょうもなくなり、リキ用のワゴン車を中古で買うはめになりました。
 MGに乗って東京へも行きました。すっかりなれた頃の伊勢自動車道、ガクとMGのパワーが落ちました。実は、自動車屋の大将とは、「近畿圏であれば故障したときは迎えにくる事」と約束のもとにこの車を買ったのです。電話をします。「確かに、近畿圏ですけど、何とかもうちょっと近づけまへんか」と言う事になり、だましだまし、帰路につきます。道路サービスの黄色い自動車が近づいてきて、「煙が出てますよ」。安濃サービスエリアまであと3kmです。「なんとか行けるでしょう」。それから1分あまり後、大音響と黒煙がボンネットを吹き飛ばしました。
 思わず、「メーデーメーデー」と無線電話での遭難信号を叫び、高速道路横の斜面を駆け登りました。幸い火災にはならず、MGと私が自動車屋の大将に救助されたのは、8時間後の午前1時でした。エンジンは完全にお釈迦になり、2週間後、同形の中古エンジンがアメリカからFedexに乗ってやってきました。
 
 10年たって、もう一度化粧直しをされた、MGは今もすてきなお婆さんで健在です。もう51歳。
  
 


 リキ物語 第10話 タイガーとクルージング

 タイガーとクルージング
 
 船が風だけの力で、スーと走り出す時、本当にうれしくなります。大きすぎて、帆走性能が悪く、パーティーをする時だけ便利な今のヨットでも、エンジンをかけずに、そっと舫いを離し、ワーキングジブに裏風を入れてゆっくりと方向を変え、スーと、ポンツーンを離れて行くのは、大航海時代の船乗りになった気分になりワクワクします。
 初めて自分たちのヨットを手に入れた時、クルージングの最初から、終わりまで、ワクワクドキドキ気持ちイイの連続でした。自分たちのヨットを手に入れたと書くと、とってもカッコいいですが、実は、大学祭に模擬店を出し、あっちこっちから女の子を集めて、女の子に飢えている国立大学の学生から巻き上げた五万円で、琵琶湖の貸しヨット屋から、ぼろぼろの中古艇を買ったのが最初でした。
 ナイトクルージングだと言って大津を出発し、風が全くなくなり、雄琴あたりで眠りこけ、起きたら、芦原の中に閉じ込められていた事もありました。全長5メートルのセンターボードの付いた大きめのディンギーですから、閉じ込められたと言っても、ズブズブと芦原に降りて、押せばしまいです。
 この座礁した時の降りて押すスタイルは、もう少し時代が過ぎて、自分たちで、まともに稼いで買った23フィートのヨットの時代までつづきます。小豆島土庄、23フィートのデイクルザーが2艇、可愛い女の子がいるよ、いやあれは子供だよ、とあっちの海岸にフラフラ、こっちの海岸にフラフラ、一日に7回座礁の記録を作った事があります。最初は、「座礁、みんな降りて押せよ」で済みましたが、そのうち誰も降りなくなりました。
 ヨットは、風を斜め前から受けても前進する事ができます。三角形の帆を持ったヨットでなくとも、大帆船時代のたくさんの横帆を持った船でも、帆の角度を変える事により、風に対して切り登る事が出来ます。なぜこんな事が出来るのか、科学少年たちの間で話題になりました。古荘君が、「それは、ベルヌーイの原理である」と言いました。そして、力の方向をベクトルの矢印で記述しました。「ヨットが風に対して45°の角度で前進できるのは、飛行機が飛ぶのと同じ原理であり、帆に働く揚力が原動力である。」古荘君は航空工学について書いた本を持っていたのです。小学校6年生の他の少年達に、そんな事判るわけがありません。
 彼はこのまま大人になり、今は工学部の教授になりました。
 本当に風に対して斜めに前進できるかどうか試してみようと言う事になり、制作が始まりました。模型とか工作とかは、みんなとっても得意だったのです。すでに、熱気球や、ロケットの実験には成功していました。参考にした写真はニースあたりに浮かぶ豪華ヨットだったようで、全長60cm、真っ白の船体、船底は赤、2本マストにブルーのストライプの帆を持つとっても優雅なヨットが出来上がりました。
 さて、実験場所は稲荷神社の池です。かなり季節風の強い日でしたが、われらのヨットは、突風にも転覆せず、30°位のヒールを保ち、みごとに風に向かって45°の角度で登って行きました。 
 対岸に3人の見知らぬ少年がいます。彼らも大きな模型の船を浮かべていました。戦艦大和です。このような状況では当然の事ですが、お互いに敵対心が芽生えます。そのうち、艦砲射撃だと言って、お互いの船めがけて石の投げ合いが始まりました。
 それから数年後、豊中高校で仲良くなった吉田君の家に遊びに行きました。驚いた事に、彼の部屋の出窓に海戦相手であった戦艦大和が飾ってありました。彼とは今も、数人の仲間とともに、同じヨットを共同で持っています。
 タイガーがわが家の家族になった頃、しばらく、渓流ばかり行って遠ざかっていたヨットに再び乗り始めています。30フィート(約9m)の量産艇の中古です。Tiger真夏、サチコと息子のトミーを連れて家を出ました。タイガーも付いて来ます。三重県五カ所のヨットハーバーまで、高速道路がない当時は数時間のドライブでした。
 タイガーはヤンチャ娘盛りです。タイガーを連れて長距離の旅行をするのは初めてでした。タイガーの用便のため、名阪国道を離れ、草原の横に車を止めました。すでに夕方で周りは薄暗くなっています。タイガーの毛色は完全保護色でブッシュの中に入ると、どこにいるのか判らなくなります。タイガーの方からはこっちは見えていますから、彼女は騒ぎません。
 「タイガー帰っておいで、どこにいるの」「------」、「タイガー」「-----」
ますます周りは暗くなり、不安になって来ました。3人でブッシュの中をあっちこっち探しました。実は、タイガーはみんなが見える所でじっとしていただけです。あまりにみんなが騒ぐので、気の毒になったのでしょう、足下で「何ギャオー」、タイガーはずっと側にいたのです。
 彼女のこの性格は、大人になっても続きます。夜、リキを散歩に連れて出ると、必ず途中まで、声を出さずに付いてきます。車からは安全な溝のなかを隠れて伝ってきますから、こちらも気がつきません。家から200メートルほどのところで、「ウギャー、もう帰る」。「なんだ、タイガーいたのか」
 今回のクルージングは、ヨットハーバーが募集した、クルージング教室に同行する形です。塾の先生たちのグループが参加していました。行き先は、紀伊長島、五カ所からは南西へちょうど半日の行程です。
 適当に良い風で、ちょうどトミーに舵をとる練習させるのに好都合でした。もう一艇クルージング教室のヨットが同行しているので、「あの船について行きなさい」、だけで、ほとんど全行程をトミーが舵を取っていました。トミー、小学校4年生です。
 ロビンという16歳の少年が一人で世界一周をする航海記があります。ロビン、リー、グレアム著、ダブ号の冒険、16歳で出航、22歳でお嫁さんを連れて帰還するまでの物語です。
 その中で、ロビンは猫を連れています。その猫が、セールの一番下になる所、フットといいます、で寝ていました。セールは真っ平らではなく、球状に膨らましてあります。一番下の部分は、結構、膨らみに余裕があり、その中に入って昼寝をすると快適です。私も時々腰をかけて居眠りをします。ダブ号の猫は、突然セールの方向が変わり、海に投げ出され、サメに食べられてしまいました。映画ではロビンがサメに向かってライフルをぶっ放しているシーンがあります。タイガーも海に投げ出されたら大変と思いましたが、用心深いタイガーは、セールに登るような冒険はせず、キャビンの奥の、マストの真下、一番涼しい所で昼寝をしていました。
 紀伊長島は漁業基地です。漁師さん達のためのスナックが多いのに驚かされました。彼らはここに家があるわけではなく、船で寝泊まりしているのです。だからスナックがはやります。たくさんの漁船をさけ、港の出入り口近くに船を舫ました。翌朝は暗いうちから、驚かされます。すざましい数の漁船が全速力で出航して行くのです。我々のヨットは、全速力漁船の引き波で、早朝からバッタンバッタン翻弄されました。こちらのマストの金具が隣の船のマスト金具と絡んでしまいました。漁業基地、出入り口に近い所は、繋留禁止、一つ覚えました。
 さて帰路、ほとんど無風です。南の方にある台風の影響でうねりだけあります。8月初めの無風の海、信じがたい暑さでした。仕方がないので帆走はあきらめ、ディーゼルエンジンでゴロンゴロンと走りました。それが7時間も続いたのです。海の上でも、山の上でも、ちょうど良い気候の事はほとんど無く、たいていは寒すぎるか暑すぎるかのどちらかです。人間も参っていましたが、タイガーも暑さで参っていました。犬のように舌をだし、ハッハッハッハと呼吸をしていました。猫の犬式呼吸、初めて見ました。あまりに暑いので、人間の方は、時々ロープを流しておいて、海に入りました。
 五カ所湾の入り口にさしかかった時、2本のネズミ色の棒状の物が浮いていました。何だろうと数メートルまで近づいた時、バシャと音を立てて潜って行きました。昼寝をしていた夫婦のサメです。2.5メートル位の大きさでした。おそらく、ネコザメでヒトを襲う事はなさそうですが、さっき海に入り、ついでにオシッコをした事、もしかしたら、かじられたかも知れないと、ちょっと後悔をしました。ここは外洋です。何がいても不思議ではありません。
 アツーアツーとヨットハーバーに着き、とりあえず船を繋ぎ止め、プールに走りました。プールと言っても深さ70cmのお子様プールです。きっと良い事があるに違いないとタイガーも走って付いて来ました。最初、タイガーは人間がバシャバシャやっているのを、プールの周りを回りながら見ていました。涼しそうな様子に、たまりかねたのでしょう。とうとうプールの中に入りました。最初はちょっと慌てたようです。バシャバシャギャオーでしたが、すぐに慣れ、ネコッカキで泳いでいました。自分から水に入った猫を見たのは、タイガーだけです。
 ヨットと戦艦大和が浮かんでいた稲荷神社の池は、今は埋め立てられて公園になり、子供達の歓声が聞こえます。私の診療所の真ん前です。 

 リキ物語 第9話

 てん と リキ
 今リキが、マムシらしき蛇に噛まれてからちょうど一年後、同じ宮川上流へ行きました。リキは1歳と5ヶ月、立派な青年になっています。
 今リキは博多で生まれました。リキの母犬は、リキたちを生むためだけにドイツからやって来たそうです。見に行った時、確かに日本語は通じないようでした。今リキの実家は、元は端正な日本庭園であったらしき所に、犬が走り回っても怪我をしないようにとの配慮でしょうか、砂が敷き詰められていました。納屋を改造した、シェパード飼育室がいくつかありました。何組かの母子が過ごせるようになっています。
 私の元同僚に小倉出身の医者がいます。学会で博多に行った時、その同僚の出身大学の後輩たちと飲む機会がありました。 蛇皮線を抱えて踊りまくっている医者がいたり、先輩のお医者様の背中に馬乗りにまたがりハイードードーと走っている、若くて、すごい美人の女医さんがいたり、後で知る事ですが、その人たちがとっても優秀なお医者さまであったり、圧倒された事がありました。その中のちょっとハンサムな青年を紹介した時の言葉が「こいつシェパードに似ているでしょ、こいつ兄弟は全員シェパードなんです」。シェパード君の父上は、お医者さまとしても有名な方ですが、シェパードのブリーダーとしても、とっても有名な方だそうです。
 にリキが、リンパ肉腫で若死にした時、すぐに、さんリキを飼う事を考えていました。いちリキからにリキへの時も同じですが、すぐに同じシェパードが来る事により、ヒト側の感覚は完全に連続してしまうのです。もちろん、3匹の個体は別々である事は間違いありませんが、私の中では、いちリキ、にリキ、さんリキは、完全に連続して存在しています。
 二人のクローンの女性と恋に落ちたら、もしかしたら、同じような感覚を抱くのかも知れません。クローン人間がまだいなくて良かった良かった。
 今リキは一人で全日空に乗って伊丹にやって来ました。迎えに行ったとき、大きく深呼吸をし、フーと言いました。とっても不安で、そして安心したようでした。今リキが大きいくせに、どこか寂しがりやなのは、全日空に載せられた記憶から来るのかも知れません。
 母親ドイツ犬の今リキですから、ふつうの日本産のシェパードより、遥かに大きく育ちました。1歳と5ヶ月ですでに40Kgを越えていました。今リキの現在の体重46Kgです。
 さて、宮川上流です。片側絶壁の鎖場を通らねばなりません。既に、高い所を通る訓練は行っていましたから、まず大丈夫ですが、念のためハーネスとザイル代わりのリードを付けました。犬用のハンクスは、40kgには心もとないので、登山用のカラビナが付けてあります。でも、本当に40kgリキが落ちたら、絶対に確保はできないだろうと判りつつ、なんなく鎖場を通りすぎました。
 渓流に沿って山道を登って行きます。今リキはいつものように、振り返りつつ2メートルほど前を歩いて行きます。この“振り返りつつ”が本人にとってはとっても重要で、これは彼が群れを先導している証です。もし、シェパードが自分のペースだけで歩くなら、スピードはもっと早くなります。いわゆるオオカミ走りで、スタスタと早足です。リキの昔々先祖が仲間と、トナカイの群れを追って行くときはこの早足でした。この早足で何日も追跡を続けたそうです。だから、リキの振り返りつつは、こちらのペースにあわせて先導している証拠です。
 オーバーハングした岩陰を回り込んだ瞬間、リキがハッと立ち止まりました。「止まれ!リキ」、間に合いました。10メートルほど向こうのやはり岩陰を回り込んだ所に、親子連れが立ちすくんでいました。むりもありません、紀伊山地は日本オオカミ生き残り伝説で有名な地域です。
 脅かして「ごめんなさい」とすれ違いました。リキもニコニコと笑っていました。
 一時間ぐらい歩くと、左側に開けた河原が見えてきます。河原の対岸斜め上流に去年テントを張った段丘が見えます。リキが、こっちを振り向いて、目を輝かせて「エー」と言いました。去年の事を思い出したようです。リキが一人で走って行きました。一目散に河原を走り抜け、川に飛び込み、向こう岸を駆け上って行ってしまいました。そして、去年のキャンプ地におすわりをし、こっちを見て、「早くおいで」と言いました。人間の赤ちゃんが一年後に同じ所に行って、その場所を覚えているわけがありません。人間の年に換算するとして、5歳の時に初めて行った場所を15歳に再び訪れて、覚えていた事になります。犬の記憶力に驚かされました。きっと、臭覚も記憶の大きな部分を占めているのだと思います。
 リキはこの場所でマムシらしき蛇に噛まれています。生体反応から言いますと、一回目より、二回目の方が危険です。だから、本当は先に行かせたくなかったのですが、行ってしまいました。
 さて、今回の本来の目的は、渓流釣りです。昨年来て、アマゴがいる事は判っています。このあたりで最も釣れそうな場所は、キャンプ地の真前ですが、真っ先にリキが荒らしてしまいました。少し、上流に小さい滝の落ち込みと瀞場があります。こここそ、と思い、リキに待てをさせておいて、岩場に登りました。岩場から、瀞場まで2メートルの高低がありますから、リキも邪魔のしようがないと考えたのですが、竿を出して、いい感じで目印がポイントに入って行った時、カワウソのようなシェパードが、竿の下をくぐりました。ずっと下流の砂場から水に入り泳いで来たのです。
 もう、あきらめようかと思いましたが、青柳君と行った初めての渓流釣りをのぞいて、ボウズはありません。一匹でもつり上げずに置くものかと、矛先はリキに向けられました。大きな流木にリードを結びつけリキを繋ぎました。
 さて、釣り、後ろの方でリキが騒いでいましたが、ほっておいて釣りに専念しました。実はリキはほとんど繋がれた経験がありません。ひどい事になるだろうと思った通り、完全にもつれて動けなくなっていました。
 結局、この日はウグイが一匹釣れただけです。こんな山奥の渓流でウグイがいるのと思いましたが、ここには鮎も放流されているようです。ウグイの稚魚は小鮎に混じって琵琶湖からやってきました。そして、ダム湖の増水により源流部までやって来たのです。納得。
 今回は、釣りはあきらめてリキと遊ぶ事にしました。次の日は、天気も良く、まだ6月の終わりですが、夏日でした。気持ちがいいので、短パンを履き、長靴を脱ぎ、トレッキングシューズで水の中に入りました。バシャバシャやりながら、だんだんと深く、流れの速い方へ近づいていきます。リキの方は、もう走り回ったり、泳いだり、投げた木の枝を追いかけたり、有頂天です。こうなってくると、人間の方も、今日はきっと泳ぐ事になるだろうと、薄々判っています。小学校のプール掃除当番の時から、ヨットレースの表彰式まで、この予測は外れた事はありません。
 まだ、はっきりと覚悟は出来ていなかったのですが、足もとが急流にさらわれ、体を安定させようとすると、腰がずぶずぶと水の中に入りました。さらに、水圧が全身にかかり、ふあと体が浮きました。こうなると、抵抗しても無駄で、足を伸ばし、全身で浮力を受けるようにし、頭を岩にぶつけないように両腕で抱え、流れて行くしかありません。
 渓流釣りで、何回か水に流され、自然に覚えたテクニックです。幸い、日本の渓流は変化が激しく、10秒もすれば、静かな瀞場でぽっかりと浮いているか、次の浅瀬に乗り上げています。
 流された所は、岩がU字型に削られ、ウォタースライダーのようになっていました。途中に、やや傾斜の緩やかな所があり、川底のごろごろ石に足をかけて止まりました。突然、後ろから何かがぶつかりました。リキです。おもしろがって着いて来ていたのです。リキともがいているうちに、二匹とも次の急流に流されて行きました。
 リキは、流れの速い所は、少し怖かったのです。でも今日の出来事で、とっても面白い遊びを覚えてしまいました。急流であろうが、海であろうが、暑かろうが、寒かろうが、水を見れば突撃するリキの性格はこの日に完成したのです。そして、渓流釣りの付き添いには全く不向きな犬になりました。
 タオルを持って来てよかった、と体を拭き帰り支度を始めました。と言っても、着替えは車の中なので、ぬれたティーシャツを脱いで、炊事用具とテントと一緒にリュックに入れただけです。
 河原から、林道までの急斜面を登ろうとした時です。リキが耳を立て、ピタと止まりました。獲物を見つけたときの仕草です。そしてダッシュ。
見ると河原を茂み向かって黄色いきれいな毛皮が走っていきます。てんのようです。リキが左、右とフットワークを効かせ、てん君をホウの木の大木の根元に追いつめました。てん君は木の根元に打ち寄せられた流木の下に潜ったようです。するとリキが、左右にジャンプを繰り返しました。オオカミが小動物を獲物にするときの戦法です。ついにてん君は、大木を背に呆然と立ち尽くしました。
 「リキ、やめろ」、いまにも襲いかかろうとしたリキがハッと顔をあげました。そして、こちらを向いてニタと笑いました。そして「ジョウダンジョウダン」と言いました。リキは、子猫や、ウサギ、ペットとして飼われている小動物、そして人間の赤ちゃんを傷つけないように訓練されています。小動物や人間の赤ちゃんの前では伏せをするように教えこまれました。
 この日はてん君が、獲物から守るべき小ペットに、そしてリキが先祖のオオカミからシェパードへ、一瞬にして変わる所を目にしました。
 そのあと、リキはてん君には目もくれず、こちらに向かって歩いてきました。
 
 
 
 
 
 

リキ物語 第8話

 リキがマムシに噛まれた。
 今リキが、子供のとき三重県の宮川の上流へ連れて行きました。宮川ダムを越え、車で越えるには少し勇気がいる吊り橋を渡り、ここから落ちれば、助かるのは奇跡に違いない、でも自分は助かるだろうと勝手に思いながら、橋を渡り終え、さらにどんどん上流へ行きました。発電所のところで林道は終点になります。何台かの車が止めてありました。いつも、不思議に思うのですが、ここに車で来ている人々のほとんどは、山歩きに来ている人々のはずです。歩く事が目的でしょうから、少々たくさん歩いても楽しいはずです。ところが、その人々が乗って来た車は、終点からできるだけ近くに、団子のように止めてありました。コンビニの駐車場が入り口近くから詰まるのと同じ現象です。
 と思いながら、自分も団子の仲間入りをし、荷物を整えました。その夜は、どこかでキャンプをするつもりです。昔、いちリキが来る前に、山へキャンプに行く時は必ず運んだソニーファミリークラブの大テントはもうありません。この大テントの最後は、子供たちが庭に張りっぱなしして、基地として使われ、時々数人が泊まっていました。テントの横の栗の大木から、テントの屋根をトランポリンに見立ててジャンプ、完全に破壊に至りました。今使っているテントは一人用の軽量テントで1Kg少々の軽さです。炊事用具も最低重量のガソリンコンロとチタンの鍋兼どんぶり兼コヒーカップが一つだけです。スキーツアーでも、渓流釣りでも、荷物が10Kgを越えると、急に行動が制限されます。スキーでは、新雪を軽やかにターンする事ができなくなり、体は雪に沈み、急につまらない遊びになります。渓流では、岩から岩へ跳ぶ事ができません。一旦、水の中に入り、よっこらっしょとまた次の岩に登る事になります。
 子供の頃から、スキー大得意の叔父に連れられて、よく雪山に行きました。今は、スキーヤーとクライマー、さらにボーダーは、別々の種族に分類されています。ボーダーさんの多い斜面に、紛れ込んだりしますと、(ス)キーヤー、あっちイキヤーということになりますが、昔は山へ登る人とスキーをする人の境目はあまり定かでなかったのです。いまほど、ゴンドラやリフトは整備されていません。それに今のようにレジャーホテルなどもめったになく、山へ行く人の装備とスキーへ行く人の装備はあまり変わらなかったのです。でも、荷物の重量は違いました。学生時代、スキー部の合宿に入るときの荷物でもせいぜい20kgです。ところが、同じ大阪発長野行き、夜間急行“ちくま”に乗り合わせる同じ大学の山岳部やワンゲルの荷物は50kgだったそうです。荷物の軽い新入部員には訓練のためと称しレンガを入れてあるとも聞きました。こうなると、サドマゾの世界です。
 さて、宮川上流地帯、5kgほどのリュックを背負って、登山道に入りました。リキは1月生まれで、その年の6月末ですから、生後5ヶ月の少年です。発電所を過ぎてしばらくのところに片流れの岩場がありました。右手の岩に鎖が固定してあります。左はそのまま絶壁で、足を外すと20m下の川に落ちる事になります。リキはまだ高い所を通る訓練はできていません。彼のこれまで経験した一番高い所は、近所の公園の滑り台のはずです。リキにハーネスを付けました。にリキに、ローラーブレードを引っ張らせるために作ったハーネスです。もし、リキが足を踏み外し、ぶら下がった状態で暴れたら、ほんとうに引っぱり上げる事ができるかな、と心配しましたが、やはり彼はシェパードでした。人の後ろをちゃんとついて来てくれました。その後、大人になった今リキは高い所は平気になりました。家の新築工事現場で、3階の高さの足場に一人でリキが登っているのを見て驚いた事もありました。
 登山道を数キロ登った所の左側に、きれいな河原がありました。向こう岸は、一段高くなった段丘があり、広葉樹の森につながっています。いつも、渓流でキャンプをする時は、増水に備えて一段高い場所を選びます。川を渡り、森と河原の際にテントを張りました。昔、小学校の土佐先生に教えてもらった三角形の屋根型テントの時代は、張り方にもお作法がありましたが、今のテントは、傘をさすのとほとんど差がないくらい簡単に張れます。一応、四隅をペグで固定しました。
 最近、渓流で“キャンプ禁止”の看板をよく見かけます。キャンプは村営キャンプ場で、ともあります。まず、ここで言うキャンプとは、どこまでの事を言っているのかよく判りません。テントを張る事をキャンプと言っているのか、バーベキューをする事を言っているのか、単に寝るなと言っているのか、よく判らないのです。寝るだけならシュラフ一枚あればどこでも寝る事ができます。確かに、ダムの下流で、緊急放流により、テントが流される事はありますから、あと管理責任を追求されないよう、キャンプ禁止と書くのでしょう。これは、自分たちが危険な所にテントを張り、大雨が降っているにもかかわらず、退避もせず、公の機関に救助を求め、さらに、管理責任に対して補償を求める側に問題があります。自然の中での行動はすべて自己責任です。
 村営キャンプ上を作ってやったからそっちへ来い、はよく判りません。第一、村営キャンプ場は遥か下流、生活排水の混じった、泡の立つ水が流れる河原の公園の横にあります。電気とか水道はありますが、大型キャンピングカーで来たパパは野球中継を見、子供たちはテレビゲームをしている仲間にはなりたくありません。政府補助金があるあいだは営業をしていたのでしょうが、それが打ち切られると、打ち捨てられているキャンプ場もよく目にします。昔々、トミーが小学校1年生の時に、北海道へキャンプ旅行に行きました。キャンプ禁止、キャンプ禁止、キャンプ禁止キャンペーンは、本州よりも北海道に先に現れたようです。テントを張る場所を探すのに苦労しました。かなり奥深い林道に入りやっとテントが張れる場所を見つけました。当時乗っていた車は、旧型のランドクルーザーです。軍隊しか使わないような車がやっと通れる道の奥まで入ったので、やっと、ゆっくり寝られると思ったとき、営林署の職員二人が、日産パトロールに乗ってやって来ました。日産パトロールとは田舎の警察のために作った四輪駆動車です。「ここは立ち入り禁止です」「なぜですか?」「ここは国有林だから立ち入りはだめです」「私は、日本の国民です、国有林ならば国民が入ることができるはずです」「国民の森ではありません、国の森です」、「国と国民は違うのですか」「違います」どこかで聞いた事がある議論だと気がつきました。国を守ると言って、多くの国民を死に追いやった国があります。どうも、お役人は国と国民をはっきりと使い分けていらっしゃるようです。
 さて、リキと一晩過ごすキャンプもできました。テントの横に、ちょうど腰をかけるのに都合の良い倒木もあります。ふと見ると、倒木の向こう側に鎌首を持ち上げている蛇がいました。えらの張った三角形の頭、小判型の模様、そう、どう見てもマムシに見えます。でも、まだ子供らしく、せいぜい30cmぐらいの大きさでした。噛まれると具合がよろしくなさそうなので、石をなげて、林の中に行ってもらいました。いちリキにとってははじめてのフィールドワークです。まだ、それほど大きくはありませんから、テントの中に入れてあげても良かったのですが、暖かい季節です、訓練もかねて外で寝てもらう事にしました。夜中、テントの外でリキが吠えていました。それほど、警戒するような吠え方ではなく、誰かと遊んでいる時の吠え方です。狐でも来たかと思いつつ、眠いので、ほっておきました。
 翌朝、釣りの用意のため、4時起床、リキを呼びます。リキはテントと倒木の間で寝ていて、すぐにやって来ました。周りが少し明るくなって、そろそろ釣り始めようかと思ったとき、リキの鼻に赤い点が二つ付いているのに気がつきました。血です。それに、鼻から付け根にかけて腫れ上がっています。あっマムシ、と気がつきました。昨夜のリキの声は蛇に対して吠えていたのです。だから、遊び声だったのです。リキがからかって、蛇が反撃、鼻の二つの点は、ちょうど蛇の牙の間隔でした。もし、マムシなら、蛇毒血清、でも犬用があるのかどうか知りません。それに、リキの鼻は腫れていますが、普通に元気で、すこぶるご機嫌です。ショックに陥っているようには決して見えません。しばらく様子を見る事にしました。
 リキの鼻は2-3日腫れていました。あの蛇が、はたしてマムシであったのかどうか本当は不明です。夕方に見た蛇と、夜中にリキを噛んだ蛇が同じ蛇であるかどうかもわからないのです。インターネットで調べますと、アオダイショウの子蛇とマムシはとっても似た文様を持っていて、頭を三角にして、攻撃をしてくる事があるそうです。子マムシだったので、蛇毒が少なかったのかも知れません。例えば、マングースがそうであるように、犬族は蛇毒に対してヒトより抵抗力があるのかも知れません。
 ここでの思い出はリキにとって強烈であったらしく、ちょうど1年後、500mほど手前で、このキャンプ地を見つけ、一匹で走って行き、川を泳いで渡り、ここだここだと言って座って、私が着くのを待っていました。
 

リキ物語 第7話 

 リキと渓流
 初めて、渓流へ釣りに行ったのは8月も終わりの頃です。この時期は渇水で、アブがいて、とても釣りにならない時期だという事は今はよく知っていますから、めったに行きませんが、当時はまったく知りませんでした。なんとなく、渓流釣りという言葉に憧れて、一応、コブナもハヤもヤマメも、一同に書いた川釣りの本を読んで、一番安い竿を買って、2万5000分の1の地図を用意して、青柳君一家を誘って、奈良県の奥にある天川村へ向かいました。地図を見ると上流へ行けばいかにも釣れそうです。釣りの本には源流のイワナなどの写真が載っていましたから、実は前の晩から、遠足の前日の少年そのものでした。
 河合から、上流へ向かいます。今はかなり奥まで舗装されていますが、当時は、普通乗用車で本当に行けるのかなと思うような恐ろしい道でした。片側は断崖絶壁、一抱えもある岩がごろごろ、車一台がやっとの道幅です。
関西電力のダム湖を過ぎたあたりから、木々の間から、見た事がないきれいな水が流れる渓流が見えてきました。
 今は、必ず暗いうちから用意をし、糸に付けた目印がやっと見えるぐらいの薄明と同時に釣り始めますが、その時は何も知りません。道幅に余裕のある場所に車を止め、まずは食事と、たき火を始め、飯を炊きました。小学校の時から、青柳君とは土佐先生に連れられてよく飯ごう炊爨に行っていたのです。
 さて、飯も終わって、釣り始めました。全く釣れません。流れの速い瀬の岩に針を引っかけ、水面の上を覆う木の枝に仕掛けをとられ、その度に仕掛けを作るものですから、効率の悪い事この上なしです。三時間ぐらい奮闘して、あきらめた頃、青柳君が釣りました。10cmにも満たないかわいらしいアマゴです。天川ではアメノウオ、もしくはなまってアメノオと言います。アマゴは若いほど朱点が鮮やかできれいに見え、日本にこんなきれいな魚がいたのかと思いました。青柳君は、コイ釣り用の、太く長い重たい竿でこのかわいらしいアマゴをつり上げたのでした。
 天川は9月から禁漁です。その秋から翌年の解禁まで、渓流釣りの本を読みあさりました。本を読んだから釣りがうまくなるわけもないでしょうが、基本的な知識は得たつもりになりました。さて、翌年の3月15日、当然前日からテントを張っています。ソニーファミリークラブの通信販売で手に入れた、3畳間が3室もあるでかいテントです。なれるに従い、荷物は小さくなりますが、当時は、コールマンの炊事コンロ、コールマンランタン2個、ベット3人分、なべ、豚汁の材料と、まさにアフリカ探検隊そのものでした。今では、渓流でもスキーツアーでも、テントもシュラフも、コンロも、食器も、最も軽量の物を最低限のみ携行するようになりました。
 午前3時にわくわくして目が覚めました。寒くてブランデーとコーヒーを飲み、真っ暗な中、岩場をはい登り、小さい滝壺に陣を構えました。まだ目印がよく見えません。どうなっているのかなと竿をあげようとした矢先、いきなり竿が引き込まれました。ドキドキ、ワクワク、バタバタです。25cmの、当時の私にとっては大イワナでした。この時以来、渓流釣りの虜になりました。
 実はこの時、リキはまだまだいません。タイガーがわが家の住人になるのも、この後5-6年後の事です。
 いちリキが、やっと一歳になった頃、天川に連れて行きました。今から考えますと、いちリキにはずいぶん激しい態度でトレーニングをしたと思います。言う事を聞かないと、容赦なくムチを飛ばしました。初めての山でリキも心細かったのでしょう。テントの中に潜り込もうとしました。そしてアルミのコッヘルで横つらを張り飛ばされました。子供の時に読んだ、荒野の呼び声、という犬の冒険物語に、これと同じシーンが出てきます。少年少女文学全集で読んだのを覚えています。作者は覚えていなかったのですが、便利なインターネットで検索すると、作者はジャック、ロンドン(1876-1916)、犬はセントバーナードで名前はバックです。南国の大きなお屋敷で、花園に集まるクマバチを眺めながら不自由なく暮らしていたバックが、数奇な運命により、サーカス小屋でいじめられたり、アラスカで犬ぞり隊に入ったり、苦労の末、最後はオオカミの群れを統率するリーダーになる物語です。バックがそり犬になった最初の晩、寒くてテントに潜り込もうとして、フライパンで叩きのめされるシーンがありました。でも、バックは、犬ぞり隊のマーシャルをとっても尊敬するようになり、自らリーダー犬になっていきます。アルミのコッヘルを使ったとき、この物語を思い出していました。しかる時はしかる。甘やかす時は甘やかす。ほめる時はほめる。公正にさえすれば、犬の尊敬は得る事ができます。と言いながらも、私の犬の訓練方法はどんどん甘くなっているようです。面白い事に、厳しくても、甘くとも、訓練の出来上がりはあまり変わりはありません。でも、いまリキは、山で寝る時は、テントの中の一番寝心地の良いところで両手両足を思いっきり伸ばして寝ています。
 さて、夜の間、しばらくはうろうろしていたいちリキは、最後にはテントの側の、私の体温を感じるところを寝場所と決めたようでした。いちリキと渓流釣りの朝がやってきました。初めてのイワナからはかなり時が立っていますから、釣り人としてもベテランの部類に入ってきています。人があまり釣れていない時でも、たいてい、1ダースは釣れていました。それと同時に、どんどん、奥へ、源流へ入っていくようになっていました。
 実は、奥へ入れば入るほど釣れると言うわけではありません。水が少なくなるにつれ、魚の数は減ってきます。餌が少ない分、魚も痩せてきます。でも当時は、この滝の向こうはどうなっているのだろうと、どんどん奥に入っていきました。
 山の中で、犬と人間と、通れる場所が異なります。人間は垂直の壁でも手が届けばなんとか登れます。シェパードも2mぐらいはジャンプができますが、助走が必要です。犬は垂直のはしごを登る事もおりる事もできません。公園の滑り台のはしごの角度が、登るのも降りるのも限界のようです。したがって、渓流の源流部に行くのに、私のルートとリキのルートは異なります。リキは私の姿と臭いを追いながら必死になってついて来ました。リキが戸惑っていると、「リキ!シェパードやろ、行け、ジャンプ」と声がかかりました。私の方は、太ももまでのゴム長を履いています。私が歩いて渡河できるところでも、リキは泳がねばなりません。3月の川の冷たさに、さすがのリキも戸惑っていました。ここも、私が先に渡って、「リキ、シェパード、来い」。さすがに来ません。水際でおすわりをしてしまいました。仕方がないので、戻って、リードを付けて、「Go、Go、Go」やっと付いて来てくれました。向こう岸に渡ったときリキがとっても得意そうな顔をしました。
 これ以後、リキはどんなところでもついてきます。いちリキは、水の中に投げた石を、顔を水につけて見つけてくるほどになりました。にリキは水泳が嫌いです。ヨットハーバーで3回ほど桟橋から落ちたのと、泳ぎたがらない、にリキを、私が焦って、海にほり込んだのが原因です。にリキを渓流につれて行きました。揖保川の上流で、岐阜県、滋賀県、福井県の県境です。イヌワシの生息地域としても有名で、ダム建設の反対運動が起こっています。その時は雪が消えた直後で、今年になってからは誰も入っていないようなところです。熊でも出て来たらどうしようと思いました。「シェパードがいるから良いよね」と言った矢先、リキがウーと低く唸りました。何かの臭いを嗅ぎ付けたようです。気持ち悪くなって、「リキ帰ろうか」と言ったとたん、にリキは来た道を100mほど走って先に戻ってしまいました。彼が得意とするのは千里中央の雑踏の中です。完全シティーボーイでした。私の行きつけの飲み屋について来て、止まり木に座り、女の子を相手に冗談をとばし、1500円のカバーチャージをとられたのも、にリキでした。
 いまリキは、あまり激しい訓練はされていません。いつも一緒に遊んでいる気分です。こっちが水に入ってわいわいやっていると勝手に側にきて泳いでいました。今では、ほっておくと、同じところをグルグル回っていつまでも泳いでいます。ですから、いまリキを釣りに連れて行くと、釣りになりません。岩陰から静かに竿を出して、釣りを始めると、カワウソのようにしっぽをのばした、シェパードが竿の下をくぐって行きました。
 
 
 
 


«リキ物語 第6話